アジア初の同性婚法制化、蔡英文総統の歴史的再選、女性議員がアジアトップ水準の4割を占め、世界も注目した新型コロナ対策などで関心を集める台湾。金馬奨授賞式で傅楡監督が涙を流しながら、「いつか台湾が“真の独立した存在”として認められることが、台湾人として最大の願いだ」とスピーチをしたことは大きなニュースとなった。
ひまわり運動は、23日間の及ぶ立法院占拠、統率の取れた組織力、全世界に向けたメディア戦略、まれにみる“成功”をおさめたといわれている。しかし立法院内では、一部の指導者たちによる決議に対する不満など、理想の“民主主義”の困難さに直面し、多くの課題を残していた。雨傘運動前の黄之鋒、周庭との交流など、カメラは台湾、香港、中国の直面する問題、海を越えた相互理解の困難さ、民主主義の持つ一種の残酷さを映し出していく。
台湾という息吹の中で、ともに未来を描き、迷い、空っぽになり、
ともに理想求めもがく、“私たち”の青春の物語は、
何を問いかけてくるのか——
STORY
2011年、魅力的な二人の大学生と出会った。
台湾学生運動の中心人物・陳為廷、台湾の社会運動に参加する人気ブロガーの中国人留学生・蔡博芸。やがて為廷は林飛帆と共に立法院に突入し、ひまわり運動のリーダーになった。“民主”が台湾でどのように行われているのか伝えたいと博芸が書いたブログは、書籍化され大陸でも刊行される人気ぶりだ。
彼らが最前線に突き進むのを見ながら、「社会運動が世界を変えるかもしれない」という期待が、私の胸いっぱいに広がっていた。
しかし彼らの運命はひまわり運動後、失速していく。
ひまわり運動を経て、立法院補欠選挙に出馬した為廷は過去のスキャンダルで撤退を表明。大学自治会選に出馬した博芸は、国籍を理由に不当な扱いを受け、正当な選挙すら出来ずに敗北する。
それは監督の私が求めていた未来ではなかったが、その失意は私自身が自己と向き合うきっかけとなっていく——
COMMENT
三・一八ひまわり運動は、一九八〇年代以降の台湾における最大規模の学生・市民による抗議運動で、台湾における行政をも巻きこむ社会活動の展開に、現在に至るまで深く影響を及ぼしている。運動の主力として、多くの若者が痛みや熱い思いを体験し、改めて人生の進むべき道を決めていった。 『私たちの青春、台湾』は、運動の過程での喪失や奮闘を真摯に記録しており、民主的な社会にとって最も意義のある教訓になっていると言っていい。それは、単に未来を夢見るだけではなく、困難と向き合い勇気を持って挑戦してはじめて、本当に自分の進むべき道に出ることができ、私たち自身を通して未来を呼びこむことができる、ということなのだ。
突き進む者と、それを記録する者。その裏側にある個人的な憂鬱と後悔。
それでもなにかを正したいと願う若者たちの想いは、こんなにも純真でまぶしい。
まちがいだらけで、もろくて、おそろしく魅力的な若者たちが集まって、社会をゆさぶる。そのようすを記録に撮ろうと張り切る若い監督の期待はある時点でみごと裏切られるが、映画を観た人の心には、「過ぎ去った青春」という言葉で括ってしまえない強い残響が残り続けるだろう。
女性大統領、同性婚、優れたコロナ対策――近年の「進歩的な台湾」の礎を成した2014年のひまわり学生運動は、決して突然起こった出来事ではない。無数の小さな流れがやがて歴史を変える奔流となっていくそのさまを見つめては何度も涙ぐみ、同時に民主主義の、何かを変えることの、そして人間の難しさに、思わず溜息を漏らさずにいられない。
かつての日本の学生運動を彷彿とさせる本作は、タイトルの如く「青春」を捉えたドキュメンタリーだと思っていた。しかし、気付けば私は予測とは違う出口に立っていた。この映画が“このような終わり方”が出来たことが、社会の視点が逆転しつつある象徴であり、希望だと感じる。
正直にいうと
簡単にコメントを書くこともできた。
けれども
あまりに私のアイデンティティを揺さぶるこの映画の
正体が掴めなくて困った。
私は台湾と日本の混血である。
では中華民国のことをどれだけ知っていて
台湾の歴史をどれだけ学び
日本の政治にどれほど関心をもって
今の仕事をしているか、と聞かれると
大勢に影響が出ないように
穏便に振る舞っている自分がいる。
一方、情熱を持って社会活動を続けているこの映画の監督や
またもっと若い世代の子たちのNEWSを斜め読みしている現実がある。
特定の宗教や政治活動、社会運動に関して
定まった意見をつまびらかにしたことがない。
それは本当にいいことなのだろうか。
観終わったとき
ふと、なまぬるい自分はこのままでいいのかと反省した。
そして言葉を並べる前に
監督の本をきちんと読んでから書こうと決めた。
一人の女性が対話を願っている。
それは平和的な未来を語るものである。
感想というよりも
意思表明のようになってしまったが
私なりに反省を繰り返しながら
誠意をもって一社会人として生きていきたいと
目を覚まさせてくれた映画である。
自分で限界を線引きしてしまったり
コミュニケーションをとろうとしたときに
壁にぶつかり、最も身近な人とさえ理解し合えない時でも
苦境に立たされたからといって
簡単に自分を放棄してしまわないように
足を踏みとどまって対話を持ち続けられる自分でいたい。
青春時代に持っていた熱が
失われたと気づいた時に
恐らく、人は大人になるのだろう
その失われる瞬間に対して
真摯に向き合う監督の姿は胸を打たれる。
物事を創造する過程で
逃してはならないものを
丁寧に掬う作業と
最終的にきちんと満足できる仕上がりにするために
思考を繰り返し、自己反芻する姿は
クリエイターとして非常に共感する。
何かを否定する人たちの“イデオロギーの背後には
一連の人生があることを理解している”(p241)という言葉が
彼女の聡明さと優しさを表明していると思った。
何よりもその手前で
ひとりの人間として
どう意思をもち、向き合った人たちと対話をするか
その試行錯誤している監督そのものの姿勢が素晴らしく感動するのである。
世界中を一人旅していて、ふと
パスポートがスタンプラリー帳のように思えた瞬間がある。
国というラインはだれかが勝手に決めたもので
その境を往来するだけで言葉が変わり食べ物が変わる不思議。
でも、目の色や肌の色が違うだけで
どこにいたって同じ人間なんだと思えた。
そこに住む人々の優しさも怖さもそれぞれにあり
魅力的なところも見えれば、ガッカリすることも勿論あった。
とにかく地球はただの一つの丸い球体で
なんとか美しいバランスを保とうと
動物も植物もみんな生きている。
私は、台湾で育ったり、日本で育った。
英語も中国語もどっちつかずで時々投げ出したくなる。
でも、知らない世界をもっと知りたくて頭よりもまず行動に出てしまうのだ。
世界共通語があればどんなにいいだろうと思う。
そしてきっと歌がやはりそれにいちばん近いもので
すべての人々の心を一つに繋げるのだと実感している。
私もわたしなりに声をだしてゆきたい。